Senri International School (SIS)

研究紀要

第6号(2001)


新しい取り組み前夜とその周辺雑感
                               
平尾公美洋
SIS教頭 

 学期完結制の詳しい内容は、大迫校長、真砂さんの文を参照していただくことにして、私は、その周辺の雑感を記すことにしたい。

<回り始めた歯車>

 切迫した必要性が、新しいシステムを生み出すことになった。私たちの学校は、構造そのものが個性的だが、そこで発生する問題も独特である。問題解決の糸口を求めて、外の世界を見渡しても、前例もなければ、モデルもない。そのため、根本的解決を図るには膨大なエネルギーを要することになる。日々の仕事をこなしながら、そこまで踏み込むことができるだろうか。微調整を繰り返しながらやっていく方が無難ではないか。たとえ、構想はあっても、多くの人たちの理解を得ることができるのか。そうした状況の中で、若くて新しい学校は改革の道を選んだ。その先頭に立ったのが、学園長である。一気に歯車は回り始めた。

 次のような話をどこかで読んだ記憶があるが、出典は定かでない。ある盲目の人がすばらしい論文を書いた。聞いてみると、文献を読むのに不自由したから自分の頭で考えるしかなかった。その結果、独創的なものができた。といった内容だった気がする。本校もこの状況に近いかもしれない。外にモデルがない以上、私たちがやるべき方法は一つしかない。自分たちが持つ物的・人的資源とそれを取り巻く環境をしっかり見つめ、分析する。そこが出発点であった。

<改革の動機>

 現在の千里国際学園中等部・高等部は、当時の大阪国際文化中学校・高等学校である。略してOIA。同じキャンパスには大阪インターナショナルスクールがある。略してOIS。OIAとOISが一つのキャンパスを共有し、両校生徒の混成授業が存在する。音楽・美術・体育がそれらであり、シェアードクラスと呼ばれる。おもに、英語で授業が行われている。

 OISが、9月始まり6月終了であるのに対し、OIAは、4月始まり3月終了である。困った点の一つが、この年度始めのずれにあった。お互いの学校が干渉せずに動いていれば問題ないが、カリキュラムだけをとってもシェアードクラスという大きな存在がある。二つの学校を結ぶ大切な橋は、年度始めのずれの影響をまともに受ける。シェアードクラスは9月に始まるため、4月から6月の時期は、クラスとしては最終学期に当たる。ところが、4月にOIAに入学した生徒にとっては、そこが初めての学期となる。新入生と在校生が同じクラスで初めて顔を合わせる4月に、OIAは新学期だが、OISは最終学期だという、なんとも不自然な事態を招いていた。

 困った点の二つめは、編入生をいかに授業の中に自然に組み込むかであった。私たちの学校は、帰国生徒に対応するため、年に数回、編入生を受け入れている。外国における学年の始まりはいろいろだが、本校に編入する生徒に関しては9月編入が多い。日本の他の学校と同じく、OIAも一年単位で授業を行なっていた。そのため、編入生は年間を通した授業の流れの中に、途中から飛び込むことになる。担当者は、授業外の時間で編入生ひとりひとりに対応してきたが、数ヶ月のブランクは容易なことでは埋まらない。実は、数ヶ月のブランクどころの話ではない。日本の学校を卒業していれば、習熟の度合いはともかく、何をやってきたかはある程度わかる。ところが、世界各国から集まる帰国生相手では、その背景の多様さのため、どこまでを基礎とみなすかさえ、難しい課題となっている。

 これらの問題は、教科担当者と、教務部の人たちを悩ませていた。当時、私は進路部の整備に躍起になっていたが、この学校ができた当初は、学校にあるはずの事務書類がなかった。たとえば、大学に送る調査書用紙はもちろんのこと調査書を送る封筒さえもなかった。何人かの先生に聞いて、そのレイアウトから考える次第であった。文字通り一から作る作業がいたるところで行なわれていた。それでも、単独で仕事を進めることができることは有難かった。人の時間を気にする必要がないので、休日の時間を使えば確実に仕事が進む。早く、整備を終えて授業に専念したいという思いが強かった。ところが、教務はそうはいかない。何人かで協力してやっていくため、チームワークが必要になる。教務の人たちも時間割を作るために夜遅くまで仕事をしていた。時間割作りの人と真夜中に顔を合わせて意見を交換することもたびたびあった。創設まもない独特な雰囲気の中で、がむしゃらにやっていた時期といえる。

 時間割は、OIAの中学校・高等学校とOISの中学校・高等学校、それにOISの小学校までかかわってくる。どの先生が掛け持ちで教えているか、どの場所が使えるのか、すべてが複雑に絡まっていて、「まるで三次元パズルを解くようだ」と表現した人もいた。当時、時間割が完成するまでに3、4ヶ月を要していた。3月の末から4月初めにようやく時間割が完成する。それでひと安心するのもつかの間、次の時間割の仕事が入る。それは、次のような事情による。OISは6月の一週目で終了するため、シェアードクラスの先生が一斉にいなくなる。ここには、契約の問題が深く絡んでくるのだが、その時点で、4月から始まった通常の授業はできなくなる。一方、OIAは7月上旬まで授業を続けることになっていた。この期間を積極的に利用する方法として、サマープログラムという、約一ヶ月の特殊なプログラムが考えられた。通常の授業では実施できない面白いプロジェクトが目白押しであったが、その時間割作りが待っていたのである。 

 このようにして作られる時間割は、作った当事者でなければ、簡単には読みこなせないほど複雑なものであった。教務で働く特殊能力を持った先生たちがいなくなったらどうなるのか。普通の仕事量で時間割ができないようでは、長続きするのだろうか。そんな思いがあった。進路部は、ようやく形が整い、次の人への引継ぎの見込みもでき、よし、数学の授業に打ちこむぞと思った矢先に、教務部への異動を命じられた。1997年春のことである。

<学期完結制>

 多くの問題の中でも、とりわけ、両校が共に成り立つためには、カリキュラムの枠組みを一緒にすることが肝要だった。しかし、今までのシステムの中ではどうしても解決できない。OIAの4月か、OISの9月か、どちらか一方に合わせるわけにもいかない。3ヶ月のずれを埋める方法はないのか。そのような試行錯誤の中で、各学期を始まりとしたらどうだろう、というアイデアが浮上した。この時、両校は4学期制を採用していたが、このアイデアが現れてから、学期の有り様についての再考がなされた。前期・後期に分けるセメスター制も検討されたが、帰国生徒の編入の状況を考えると、9月始まりはゆずれない。結局、三つの学期に分けることに落ち着いた。結論はいたって平凡である。長い時間をかけて、多くの学校が実施している3学期制に辿りついたことになる。だが、その中身はまったく異なる。そこに学期完結という思想が入っているからである。

 学期ごとに一つのまとまった内容を教え、そのコースの終了に際して単位を与えようという考えを学期完結と呼んでいる。受け入れ時期を学期毎に設定すれば、編入生も在校生とまったく同じスタートライン立つことができる。また、途中で、進路変更の必要が出ても柔軟に対応できる。次の学期でコースを変更すればよい。加えて、時間割作成時の工夫により学年を超えた履修ができるので、異なる学年の生徒が一つのクラスで学ぶことが可能になる。とりわけに、帰国生に対しては、その背景を考慮した適切なクラスを見つけやすいという利点がある。詳しい内容は、コースアドバイザーの真砂さんがこの紀要の中で述べている。

 年間を三つに分けたが、一学期・二学期・三学期という名称は付けていない。もし付けるとすると、どこが一学期かという問題が起きる。OIAにとっては4月からが一学期でも、OISにとっては、9月からが一学期である。私たちは、常に、二つの学校を対等に意識することを迫られる。そこで、各学期に春学期・秋学期・冬学期という呼び名をつけた。この季節名により、どの学期が先か後かの順序はない。どの学期も始まりであり、それ自体が独立したまとまりなのである。 

<人の意識との戦い>

 基本的なアイデアを練るために、三人が集められた。大迫(当時副校長)・真砂・平尾(当時教務部長)の三人である。それぞれの役割は、あまり話し合わなくても自然に分かれていった。大迫さんは、人との折衝やOISとのパイプ役として、人的関連をまとめていく。真砂さんは、アイデアとしての学期完結制をブロック制という彼のアイデアをもとに具体的な時間割という形で実現させる。私は、教務内規をはじめ、新しい形になったときに教務上うまくいくかを検討する役である。人数が少ないのにもわけがあった。根本的な改革に全員参加はほぼ不可能であるだけでなく、日々の学校運営や授業の質を維持する必要がある。多くの先生は、授業に専念していただくことが大切だ。三人は、土日や長期の休みも仕事漬けにならざるを得ない。この程度の人数が依頼できる限度であったに違いない。福田学園長が理事長をされている大学の理事長室で、夏休みの宿題をめぐって、三人で話し合っていた光景が思い出される。

 大枠ができてからは、全員の先生方の本当の理解と協力を得る必要があった。何しろ、今まで一年単位でおこなっていたものを、60日ごとのまとまりに再構成していくのである。困難を感じたり、戸惑う人がいて当然だ。繰り返し、各教科の先生方との話し合いが行なわれた。まさに、人の意識や固定観念との戦いである。すでに何十年にもわたって慣れているやり方や考え方を変更するのは容易ではない。教科によっては、このやり方では教育の質の低下を招くという主張がでる。いや、面白そうだから、この枠組みで工夫しようという教科もでる。それぞれの教科の特性の中で、一人一人の教師が厳しい挑戦を受けることになった。

 先生方は、教科の整備に取り掛かる一方で、私たち三人は、投げかけられる問題や細部の詰めに時間を費やした。多くの疑問が先生方から投げかけられる。いくら時間があっても足りない。誰もやったことがないという事は、誰も確実な結果を知らないという事である。結果が絶対良いという保証はどこにもない。しかし、私たちには、確実によくなるという確信があった。全体を巻き込んでの改革なので失敗はできないが、どう転んでも大局的には悪くならない。ただ、あくまで、大局的にである。局所的な問題に目を向ければ、いくらでも疑問や問題が出る。多くの疑問や不安、心配の嵐の中で、漠然とした希望をたよりに先に進む作業が続けられた。「とにかくどんな状況でもポジティブに考えよう」がいつしか大迫さんの口癖になった。

 何が起こるかわからない不透明な情況下では悪い事態はいくらでも思い付く。一年間ではなく学期が単位となるため、生徒の選択によっては、ある期間ある教科を履修しない可能性がある。そんなことで大丈夫なのか。生徒にとって、選択の幅が広がるのは良いとしても、生徒自身で正しい選択ができるのか。必修科目を文部省の最低限に絞るという基本方針があったので、それまで必修であった教科にとっては、生徒に大事なことを教えずに卒業させることにならないか。などなど。もっともな点も多々あるが、大切なことはもう一歩踏み込んで考え、ほんとうに工夫の余地がないかどうかを既成概念に捕らわれず、考え抜くことである。それは、ひとつの創造につながる行為であろう。日本で生まれたすばらしいアイデアも国内では評価されず、海外で評価されて逆輸入されるという話は多い。新しいアイデアは、弱々しい新生児だ。欠点は簡単に発見でき、葬り去るのもたやすい。その価値を認め、育てて行くには、そこにいる人々が自立した意識と柔らかい心を持ち、自分の頭で判断する集団でなければならないのだろう。この千里国際学園ではどうであったのだろうか。先生方との話し合いの時点では、残念ながら具体的な時間割はできていなかった。先生方にとっても不明な点が多々あり、どうイメージしていいのか戸惑った部分も多かったに違いない。しかし、もともと柔軟性においては秀でた教師集団である。次第に新しい可能性を模索し始める教科が増えてくる。そして、積極的にこのシステムを活用していこうという気運も見え始めた。小さなアイデアが徐々に現実のものとして形を成していった。

 次に、保護者の理解を求める必要もあった。まだ、計画を煮詰めている途中での公開なので、詳細の詰めが完全ではない。先生方との話し合いとは異なる難しさがある。新しいシステムにどう移行するのか。誰もやったことがない方法でうまくいくのか。移行期の子供たちの教育はカリキュラム上うまくつながるのか。何となく漠然とした不安を誰もが持った。新しいシステムなので、私たちが描くイメージを正確に聞き手に伝えることは容易ではない。このとき、情報公開の難しさを味わった。私たちはできるだけ正確にすべての情報を開示したい。しかし、中途半端では混乱や誤解や不安を広めるだけになる。会合の終わりには必ず三人のうちの誰かが言ったものである。「一度話を聞いただけで理解できたら、その方が不思議です。少しずつ理解してください」 保護者の方々と何回か話し合う中で、少しずつ理解が広がっていった。細かい評価はこれからだが、これほど大きな変革が多くの人たちの努力と理解で実現したという事実は大きい。
 残るは、生徒たちとの共同作業である。このアイデアを生徒たちと実践するにあたり、二つの柱を必要とした。

<二つの柱>

 選択がスムーズに行なわれるようにするために、コースアドバイザーという役が新たに設置された。時間割を組み立て、ひとりひとりの生徒のコース選択に関して、適切な助言を与える仕事である。科目登録に先立って、生徒には 90ページほどの冊子である開講科目一覧表が配られる。そこには、履修の仕方や科目名・選択必修の別・単位数・週時間数・開講時期・授業担当者名・履修条件・内容紹介等が各教科ごとに記載されている。生徒は、それらを参考にしながら、いろいろな先生と相談してコースを決めていく。その中心になるのが、コースアドバイザーである。

 コースアドバイザーと並んで、このシステムを支えるもう一つの柱がコンピューターである。開講科目一覧は紙の形で提供されるが、学校のLANにアクセスすれば、もっと詳しいシラバスを見ることができる。学期完結への移行を機会に、すべての先生方にシラバスの作成をお願いした。今までと違って、年間を通した授業ではないので、過去に先生方が持っていた授業進行に関する年間のリズム感覚が役立たなくなる。前もって、シミュレーションをしておいた方が良いとの判断からである。科目登録は年間を見通して行なわれるが、科目を落としたり、進路変更などに伴う科目変更の便を考え、学期ごとに登録をやりなおす事にした。こんなことができるのも、コンピュータのデータベースを管理している人たちがいるからで、コンピュータがなかったら、今のシステムは実現していないに違いない。生徒も教師もスタッフも全員がメールアドレスを持ち、その活用を前提に考える環境が整ったからできるシステムとも言える。

<文部省が提示する新しいカリキュラムと千里国際学園>

 このシステムはまだ生まれたての赤ん坊である。多くの人々の理解と協力がなければすくすくと育つというわけにはいかないだろう。修正すべき点や工夫すべき点もある。意外なことに、普通の学校では何の問題もない教科書購入や指導要録の記載方法など瑣末に見える問題でかなり頭を痛めている。理由は、内に目を向けて構築したシステムであるために、新しい試みのいくつかが外の枠組みと合わなくなっているせいである。反面、文部省のカリキュラム改正に伴う、学校完全5日制の実施や「総合的な学習の時間」など、今までの既成教科にとらわれない学習活動の設定に関しては、わりに楽観視している。 

 学校5日制は私立学校ではさほど珍しくはないが、本校も創立当初からそうであった。そのため、5日制の完全実施による影響はない。ただ珍しいところでは、その当時、モジュラー・スケジュールなる時間割を導入していた。これは、15分をブロックとして、15分・30分・45分・60分・75分・90分などと各授業時間を設定できる。最近文部省も各授業時間の柔軟性を認める方向にあるが、本校は1991年の設立当初にそうであった。そのため本校ではチャイムは鳴らない。他の授業の妨害になるからである。たとえば、理科の実験に90分が必要になれば、そう組めばいいし、英語で45分の授業が欲しいとなれば、その要望に答えられる。とても柔軟性がある、かに見える。ところが、このやり方がその良さを発揮するには、本校の仕組みは複雑すぎた。例えば,理科の実験室の利用ひとつをとっても、OISとOIAが同じ実験室を共同で利用しているため、両校の時間枠が15分でも重なってしまうと、もうその実験室は片方しか使えない。施設の有効利用ができないのである。チャイムは現在も鳴らないままだが、モジュラーという言葉は、今では日常会話にその名残をとどめるにすぎない。何事も、それぞれの学校の諸事情によるという事であろう。

 「総合的な学習の時間」についての本格的な取り組みはこれからであるが、すでになじみの感がある。そのためか、緊急課題という切迫感があまりない。「総合的な学習の時間」に関する先進的な研究を記載した本には、進路学習・国際理解・環境・福祉といったキーワードが目に付く。このキーワードを頭におきながら、この学校の学習活動を簡単に見てみよう。

 本校の学習活動では、討論・論文・実験・観察を重視し、レポート提出が日常となっている。開講科目一覧表に記載されている208に及ぶ科目の中には、すでに総合的な学習の色彩を帯びたものもある。たとえば、「宗教学」がある。 ヒンズー教・仏教・キリスト教をそれぞれの宗教に詳しいインド人や日本人が交代で担当し、話はカルトにまで及ぶ。何回かは、「宗教と心理学」のテーマで、本校のカウンセラーがゲスト講義をする。また、「科学の論理」では、理科の教員四人が中心になって、超常現象を話題にしたディスカッションや科学の学び方・科学の発想などの授業を展開する。「コンピュータ考古学」というテーマで、大学の先生の飛び入り講義もあったりする。だが、そういったカリキュラム上のみならず、もっと自然な形で、これらのキーワードは、学校生活に染み込んでいる。

 まず、進路を例にとると、学期完結制で年に三回必要になる科目登録が、すでにその勉強となっている。生徒たちはコース選択を機会に、みずからの進路を考えざるを得ない。進路情報室に相談に行く最初のきっかけにもなる。そこで、大学や将来について担当者と話をしたり、資料を参照したりする。漠然とした心の迷いが強ければ、常駐のカウンセラーと話をしているうちに自分のやりたい事に気づく場合もある。外国の大学に進学したければ、OISのカウンセラーと相談できる。これらが有機的に作用しあいながら生徒たちの手助けをしていく。生徒は常に自ら考えることを求められるため、楽な選択はできないが、迷いながらでも自分で行動を起こせば、アドバイスを得ることができる環境が整えられているのである。

 国際理解に関しては、学園全体が、ある種のミニ国際社会の様相を呈している。シェアードの授業や学校行事はもちろんのこと、生徒たちはジョイントの生徒会活動やクラブ活動を通して、さまざまな人とのコミュニケーションの必要に迫られる。人工的に設定した時間ではなく、自然発生的に生じる日々の体験のなかで、相手や文化の違いを理解する大切さと難しさを肌で感じることになる。これは、私たち教師も同じである。環境についてはどうだろう。学校には3つのルールしかない代わりに、屋台骨の役割を果たす行動規範、「5つのリスペクト」がある。2000年の現在、校長が同名の講座を受け持っている。そのひとつひとつが深い意味を持っているが、その中の一つに、「環境へのリスペクト」がある。環境を大切にする、という短い言葉であるが、生徒たちは日常のなかで具体化することを意識させられる。日ごろはわからないが、何かの折に表面化する。たとえば、学園祭は生徒会が主催する行事だが、模擬店で使用する皿はエコプレートである。環境にやさしく、リサイクル可能な皿の使用を生徒自ら義務付けたのである。他にもクラブ活動でいくつかのボランティアクラブが活発に活動している。強いて言えば、この学校の活動全体が総合的な学習を実践しているといえる。 

 もともと、物事はいろいろなものが複雑に絡まりあって生じている。それらを学ぶ学習も自然に多くの視点からのアプローチとその総合が必要になる。その意味で、学びの場が総合的な学習になるのは、いたって自然な流れであろう。千里国際学園の環境においては、「総合的な学習の時間」をわざわざ設定することの方が、むしろ不自然なことに思えてくる。

<未来は>

 私たちの学校は、帰国子女受け入れを専門に設置された学校である。そのための課題を抱え、常に新しい挑戦をしている。いつまでも変遷を重ねるのだろうか。変遷がこの学校の宿命なのかと思いたくなるほど常に自己改革を行なっている。あるいは、帰国子女に特化した特殊なケースとして終わるのであろうか。今回の学期完結制にしても、改革の動機はどうあれ、でき上がったシステムには柔軟性があり、適応範囲を帰国生に限定する理由はない。これから進化していく可能性もある。私は、本校が帰国子女(本校では帰国生と言っている)教育だと声高に叫ばなくなった時が、この学校の一つの到達点ではないかと考えている。どこから帰って来ようが、どんな背景を持っていようが、日本国籍だろうが、外国籍だろうが、学校という限度を見極めながらではあれ、柔軟な対応ができる教育こそ本物であり、普遍性を持つのではなかろうか。帰国子女教育という言葉が不要になるとき、日本のここかしこに、多様な経験を持った生徒や教師がその特性を十分生かした活動を行っているであろう。そのとき、千里国際学園はどうしているであろうか。おそらく、新しい姿を求めて次の挑戦を始めているに違いない。この学校の未来の担い手は呟くかもしれない、この改革は単なる序奏に過ぎなかったと。


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